川﨑真 氏(幼児教育研究家)

ルサンチカ「SO LONG GOODBYE」

ーーー本質としての仕事の側面を探る。ーーー

 

​ 今回、上演されたルサンチカの「SO LONG GOODBYE」は仕事をテーマとしている。演出の河井朗氏が中心になり、様々な年代、職種のインタビューを取り、それを元に製作された。一見すると簡単に思えるテーマほど難しいものである。身近なテーマは見る側が普段から実生活で接しているため、それに伴う先入観が構築されている可能性が極めて高いからである。今回の舞台を観劇するにあたり、この作品が表現したいものは単純なものではなく、もっと他の深い部分にあるはずであるという点に着目して観るように心掛けた。

一言で仕事と言っても世の中には様々な仕事の形態がある。ところがその本質も様々なのである。一人で大勢の人の前に立つ仕事でも司会、講演、演説、大学講義などがあり、一見すると同じ仕事に見える。しかし、これらの中で私が経験した最も難しいものは大学講義である。大学講義は、それを聞く学生から、この人の話は自分にどれほど役立つのかといった評価や役立つ講義をして欲しいといった期待感などの感情がひしひしと伝わってくるからである。ある意味生き物であるとも表現する事ができるであろう。もちろん期待にそぐわない講義をすると、その場で結果が出てしまう恐ろしいものである。つまり、この恐さがこの仕事をする上での本質の一つになる。

今回の一人の女優が演じる舞台を観てまずこれらの事を思い出した。なぜなら、舞台も同じ生き物であるからである。二度と同じものは作る事はできない。そこが舞台の魅力の一つであり業(ごう)であるとも表現する事ができる。又どこまでを舞台として見るのか、演者や舞台演出だけを見るのであればビデオとの相違はいかなる部分であるのか。観客の息吹により演者の感情変化やミスも又舞台の一部ではないか。など様々な視点からこの舞台を観てとる事ができる。

今回の舞台は、派手な舞台演出や音楽が全く無い事でより一層演者に対する観客の視線やストーリーに対する期待が寄せられる。それらの演出効果に依存できないからだ。加えて一人の女優が何人もの人物を語りだけで演じるから尚更である。主演女優、渡辺綾子の力量が試される舞台である。持論ではあるが、前述したように身近なテーマを題材にするには演者の様々な人生経験も大きく反映される事も付け加えておく。 これらの難しさを払拭させる狙いがあったのかは定かではないが、導入部分が興味深い。司会者が開演に先立って舞台上でインフォメーションをした直後、女優が登場し話し始めるのである。接続はとてもスムーズだ。話は自己紹介であるかの様に始まる。定石では、その後からが本編の開始だが、果たしてその通りなのか。この時の「休職中」という言葉には言葉以外にどんな意味があるのだろうか。最初の司会者が登場した時からが舞台の開始なのかは興味深い点である。

最初の子どもとの会話に鉄棒の件(くだり)がある。この時の子どものとった行動は情報共有であり、他者との共存を前提とした行動である。この事が後の表現に関連性を持つ事はこの時点では知る由もなかった。本編に入り女優は仕事の目的に伴う生き方を主題として多くの働く人を演じ始める。生活のために行う仕事、他者の目があるために行う仕事、職場に迷惑をかけられないといった責任感から行う仕事。目的一つとっても様々な理由がある。しかし、共通して言えるのは、仕事は手段であって目的ではないという事である。

昔、ホームレスとは生き方の一つであるという意見を耳にした事があるが、この舞台でも仕事をしない恐怖とホームレスという生き方の対比が取り上げられている。ここにも前述した通り、他者との共存が存在感を示す。人には所属の原理というものがあり、どこかに所属することで自分の存在を自他共に認識する傾向がある。逆に言えば所属がない事に絶対的な不安を感じるものである。多くの人が人生の大半を所属させる場所は職場である。仕事にはこういった心理的側面も存在するのである。これらも上手く体現されていた。

劇中の唯一と言って良い舞台演出に真空パックされた数多くのバナナが象徴的に登場する。これは何を意味するのだろう。このバナナは同じ場所にとどまるのではなく天に上がる。この演出の意味は私には、仕事上における人との関わり、製品、賃金などの数ある生産性の部分を取り除けという意味に見えた。バナナが天に向かう演出は生産性を取り除いた仕事の本質の象徴のようでありその本質の追求こそがこの演劇の隠れたテーマに思えたが、観劇された方がどう感じられたかはそれぞれの考えにお任せしよう。

最後になるが、今回の舞台も仕事なのである。演出の河井朗氏は、この舞台を通じて演劇の仕事の本質を追求したかったのではないであろうか。それを表現する女優、渡辺綾子の今までの人生経験に基づく自然な演技は見事であった。自分の仕事の本質とは何かを改めて自問自答しながら観劇すると又違ったものが見えてくるのかも知れない。

ルサンチカ「SO LONG GOODBYE」

ーーー本質としての仕事の側面を探る。ーーー

​ 今回、上演されたルサンチカの「SO LONG GOODBYE」は仕事をテーマとしている。演出の河井朗氏が中心になり、様々な年代、職種のインタビューを取り、それを元に製作された。一見すると簡単に思えるテーマほど難しいものである。身近なテーマは見る側が普段から実生活で接しているため、それに伴う先入観が構築されている可能性が極めて高いからである。今回の舞台を観劇するにあたり、この作品が表現したいものは単純なものではなく、もっと他の深い部分にあるはずであるという点に着目して観るように心掛けた。

一言で仕事と言っても世の中には様々な仕事の形態がある。ところがその本質も様々なのである。一人で大勢の人の前に立つ仕事でも司会、講演、演説、大学講義などがあり、一見すると同じ仕事に見える。しかし、これらの中で私が経験した最も難しいものは大学講義である。大学講義は、それを聞く学生から、この人の話は自分にどれほど役立つのかといった評価や役立つ講義をして欲しいといった期待感などの感情がひしひしと伝わってくるからである。ある意味生き物であるとも表現する事ができるであろう。もちろん期待にそぐわない講義をすると、その場で結果が出てしまう恐ろしいものである。つまり、この恐さがこの仕事をする上での本質の一つになる。

今回の一人の女優が演じる舞台を観てまずこれらの事を思い出した。なぜなら、舞台も同じ生き物であるからである。二度と同じものは作る事はできない。そこが舞台の魅力の一つであり業(ごう)であるとも表現する事ができる。又どこまでを舞台として見るのか、演者や舞台演出だけを見るのであればビデオとの相違はいかなる部分であるのか。観客の息吹により演者の感情変化やミスも又舞台の一部ではないか。など様々な視点からこの舞台を観てとる事ができる。

今回の舞台は、派手な舞台演出や音楽が全く無い事でより一層演者に対する観客の視線やストーリーに対する期待が寄せられる。それらの演出効果に依存できないからだ。加えて一人の女優が何人もの人物を語りだけで演じるから尚更である。主演女優、渡辺綾子の力量が試される舞台である。持論ではあるが、前述したように身近なテーマを題材にするには演者の様々な人生経験も大きく反映される事も付け加えておく。 これらの難しさを払拭させる狙いがあったのかは定かではないが、導入部分が興味深い。司会者が開演に先立って舞台上でインフォメーションをした直後、女優が登場し話し始めるのである。接続はとてもスムーズだ。話は自己紹介であるかの様に始まる。定石では、その後からが本編の開始だが、果たしてその通りなのか。この時の「休職中」という言葉には言葉以外にどんな意味があるのだろうか。最初の司会者が登場した時からが舞台の開始なのかは興味深い点である。

最初の子どもとの会話に鉄棒の件(くだり)がある。この時の子どものとった行動は情報共有であり、他者との共存を前提とした行動である。この事が後の表現に関連性を持つ事はこの時点では知る由もなかった。本編に入り女優は仕事の目的に伴う生き方を主題として多くの働く人を演じ始める。生活のために行う仕事、他者の目があるために行う仕事、職場に迷惑をかけられないといった責任感から行う仕事。目的一つとっても様々な理由がある。しかし、共通して言えるのは、仕事は手段であって目的ではないという事である。

昔、ホームレスとは生き方の一つであるという意見を耳にした事があるが、この舞台でも仕事をしない恐怖とホームレスという生き方の対比が取り上げられている。ここにも前述した通り、他者との共存が存在感を示す。人には所属の原理というものがあり、どこかに所属することで自分の存在を自他共に認識する傾向がある。逆に言えば所属がない事に絶対的な不安を感じるものである。多くの人が人生の大半を所属させる場所は職場である。仕事にはこういった心理的側面も存在するのである。これらも上手く体現されていた。

劇中の唯一と言って良い舞台演出に真空パックされた数多くのバナナが象徴的に登場する。これは何を意味するのだろう。このバナナは同じ場所にとどまるのではなく天に上がる。この演出の意味は私には、仕事上における人との関わり、製品、賃金などの数ある生産性の部分を取り除けという意味に見えた。バナナが天に向かう演出は生産性を取り除いた仕事の本質の象徴のようでありその本質の追求こそがこの演劇の隠れたテーマに思えたが、観劇された方がどう感じられたかはそれぞれの考えにお任せしよう。

最後になるが、今回の舞台も仕事なのである。演出の河井朗氏は、この舞台を通じて演劇の仕事の本質を追求したかったのではないであろうか。それを表現する女優、渡辺綾子の今までの人生経験に基づく自然な演技は見事であった。自分の仕事の本質とは何かを改めて自問自答しながら観劇すると又違ったものが見えてくるのかも知れない。