誰かではないあなたそのもの――「SO LONG GOODBYE」を観て
普段何気なく発している言葉や受けとっている光景や人の動き。これらがどれだけの意味を含みうるのか。そんなことを自然と考えてしまう演劇だった。 前作「PIPE DREAM」の「死」に続き今作のテーマは「仕事(生活)」。仕事とは何か。生活の糧となること、誰かのためになること、生きがい。捉え方はそれこそ人の数だけある。最低限の共通項は「体を動かす」という作業と「対価」だろう。大事なのは共通項の先で、仕事(生活)に付着した、それぞれの人が設定する目的や意義。これを内側からの仕事の定義とするなら、外からの定義としては警察官、自営業、介護職員などの肩書としての職業が分かりやすい。
本作では、この肩書としての職業が主に語られているように見える。真空パックされたバナナは「人そのもの」にも見えるが、それにしては個性がないように感じる。台詞に含まれている何人かの人物が個人的な仕事論を語っているのに、どこか特徴がない平板な声に聞こえるのと同じように。外から見ると、肩書としての職業は吊るされて並んだ真空パックのバナナのように見分けがつかない。この視点からの真空パックは、職業という言葉に袋詰めされた個人の閉塞感が含まれているように見える。 「Fruit」という単語には収穫という意味があると劇後の挨拶で聞いた。ここから想起されるのは仕事の実りである「成果」。この結果を人が仕事の意義として求めようが求めまいが、社会は成果の積み重ねで成り立っている。この筋から考えると、仕事は社会的持ち場という意味になりそうだ。確かに人間関係でも肩書を見られるし、肩書があることで公的にも私的にも生きやすくはなる。ただ、この収穫にはどことなく「死」の匂いがある。鮮度が落ちたフルーツは捨てられてしまう。台詞の中にも「ホームレスは生きることを諦めた人」「姥捨て山」のように、社会的持ち場を確保できない人は蚊帳の外という仕事観が見え隠れしている。国を大きな会社に例えて考えることからも、これが仕事の最も広い意味かもしれない。
ところで、テキストを読み込んでいると出演者である渡辺綾子さんが自分の言葉を語っている割合がとても多い。何故だろう。観劇中には気づかなかったが、職業の中には必然的に個人が含まれていて、その人は職業とは関係なく自分の考えと言葉をもって生きているということを示している。だとすれば、冒頭で演出とドラマトゥルクの名前が語られるのも同じだ。人には肩書という名札とは別に個人的な名前があるということ。当たり前のことだが、仕事という観念を考えるときにこれを意識し続けることは難しい。なぜなら仕事には代替性という無個性な特徴があり、だいたいの仕事に求められるのは個性ではなくその職業の誰が行っても同じことができるという水準だから。
このように個人であることが開かれているのであれば、ここでも僕が個人的に感じたことを書かなければ失礼だろう。前作も観ているためどうしても繋がりを考えてしまう。「PIPE DERAM」では河井朗さん1人が演じていて、1人ということは同じ。しかし、吊られているのは河井さん自身だった。この違いは「死」は個人的なものだけど、「仕事」はそうではないところにあるのかなと感じる。 横並びに吊られていくバナナは、ここでは独りではないというメッセージも含まれていそうだ。
音について。前作も今作もとても静かで音の情報はほとんどない。前作は時計を思わせる口で鳴らすコチコチという音が死への時間制限を想わせたけど、今作では真空パック機の音が響く。音が変われば真空パックの出来上がりは間近ということが分かって、だんだんと成果が積み重なる。どちらも時間の経過を示しているけれど、意味合いは随分と違う。
動き。前作の動きはほとんどなかったけれど、今作の渡辺さんはせっせと真空パック機を使い、台車に載せてバナナを吊る仕事をしている。仕事という作業を表現しているのは確かだけれど、この真空パックされたバナナが個人を包括した仕事だとすればもう1つ意味があるのでないか。注意深くひとつひとつ、ひとりひとりを実らせるのは神様のような超越的な存在の仕事。この存在にとっては誰もが等しい。ここから、なんとも言えない自分も肯定されている感じを受けた。
タイトル。「PIPE DREAM」は、人生が運命という一方通行の管を通り過ぎるだけのものでしかないならば、生は管の中で見る夢でしかないという意味に読み取れた。「SO LONG GOODBYE」はさよならの挨拶が二重になっていて、何とさよならをするのかが分からなかった。仕事を離れたら個人は純粋な個人に戻るから、次の個人の関係になれるまでさようなら、またねということなのか。あまりしっくりこないから思い出すたびに考えようと思う。
「『そうすることが決まっているように』働いて生活しているなって思うんです あー ゆっくり死んでいるなぁー って思うわけなのね」という途中の台詞が最後に繋がる。「私は嫌なんだよね どうせ ゆっくり死ぬよ でも ゆっくり死にたくない から なんでも話してあげるよ」。意味はよくわからないけど、とても好きなフレーズ。話すという行為は空気を発することで真空パックと連想すると鮮度が落ちるという悲観的な考えも浮かんだけれど、たぶんそうではなくて。個人を語ることは仕事という個人が抽象化された括りから純粋な個人として抜け出すこと。職業の中に個人が居る、ではなく、個人を先に捉える仕事観。劇中は没頭させられて、劇の後は自分という現実を考えさせられる。どちらもとても楽しい時間だった。これが次回の「争い」にどのように繋がっていくのか。時間が許す限り観に行きたいと思う。それでは次回作を楽しみにしています。さよなら、またね。