藤城孝輔 氏

ねばつく街と、海の誘惑――『ひたむきな星屑』を観て

 

ひっかかりの残る作品である。わかる部分よりも、曖昧なまま残された部分のほうが圧倒的に多い。まるで本作は、観客が内容を理解したことにして足早に通り過ぎていくことを許さないかのようである。だから観終わってしばらく時間を置いた今も、芝居のシーンが白昼夢のようにおぼろげに頭にまとわりつく。見慣れているつもりで見過ごしていた夜の街並みが、違った表情で目の前に立ち上がってくる。私は「ひっかかり」という言葉を使ったが、本作の内容に合わせるならば「ねばつき」と言い表したほうがより適切かもしれない。舞台の中央に大きな穴が開いている。劇中で陥没事故を起こす高速道路を模したセットである。土の色をした穴の内側は透明な粘液で満たされ、化石、サーベルタイガーのおもちゃ、星砂の小瓶といった小道具が糸を垂らしながらそこから取り出される。この粘液の役割はさまざまだ。サービスエリアの従業員たちはまるでフードコートで出されるカレーの染みのようにエプロンを粘液で汚し、暴動の場面では粘液が血液に見立てられる。特に印象的なのは、二十年ぶりに朝日ヶ丘に戻ってきた主人公の青子に対して姪の加絵が現在の街の様子を説明するシーンである。舞台中央に宙づりにされたアスファルトの断片の上に並べられた粘液まみれの小道具を加絵が街の建物のミニチュアのように手に取りながら語る。その様子は、あたかも街全体がねばっとした粘液に包まれていることを示唆するかのようですらある。高速道路を敷設したばかりの海のない街、朝日ヶ丘。と言っても、この街から高速道路に出入りできるわけではなく、朝日ヶ丘にはサービスエリアがあるのみだ。地元の人間に移動の契機をもたらすことのないこの高速道路は、ねばねばと糸を引く土地を急ごしらえの欠陥工事によって閉じ込めた単なるアスファルトである。腐敗を覆い隠すだけの開発を進めた朝日ヶ丘は逃げ場のない閉塞的な地方都市であり、一見都会化と社会的流動性を象徴し得るかに見える高速道路はホタテを入れただけの湘南カレーや海外の化石ばかりを陳列した化石博物館と同様、陳腐で表層的な虚飾に他ならない。舞台上の柱を蔦のように絞めつける赤い電飾で表現された渋滞中の自動車のランプや、青子の吸う煙草の煙が舞台上に厚く垂れ込めるさまは街の閉塞感や息苦しさを強調している。かつてこの街から逃げ出した青子にとって、現在の朝日ヶ丘は見知らぬ土地に変貌している。劇の冒頭、木々の影が背景に映し出され、虫のすだきが聞こえる夜のシーンで、青子を演じる渡辺綾子は自分の足もとを探るように登場し、一つ一つの言葉の感触を確かめるようにセリフを発する。後の場面においても、彼女はカフェに入ってきた加絵が自分の姪だと認識できず、かつての同級生でサービスエリアの主任である大沼が過剰な親しさで接してきたときには困惑の表情で応じる。久しぶりの故郷に対する懐かしさを彼女が見せることはない。それはサービスエリアを中心とする街の一帯が、マルク・オジェが「非-場所」という造語で言い表した、どこにでもあるどこでもない場所であることを意味する。共同体の営みがもたらす連帯感や場所への愛着はそこには存在せず、帰郷者の青子に限らず街の人々は皆、孤独と疎外感の中で生きている。以上のような街の息苦しさからの脱出を切望する加絵の思いは、海への憧憬という形をとって現れる。劇中のセリフで「群馬県」と直接言及されることはないものの、内陸に位置する朝日ヶ丘において海は、ここではないどこかの理想的な象徴となり得る。映画館のシーンで目まぐるしく切り替わる投影映像に映し出される波打ち際のショット、ロッド・スチュワートが帰郷の船路を自由の追求として歌い上げる挿入歌「Sailing」(1975年)など、海のモティーフは自由や開放感などを含意しながら繰り返し登場する。加絵や青子の携帯電話にたびたび届く「櫻井翔」を名乗る迷惑メールもまた、街の外からの誘惑を表すものであろう。その中の一通で、櫻井翔はロケで訪れた沖縄の海の美しさについて語り、星砂をプレゼントとして贈りたいと伝える。本作の櫻井翔は、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』(1949年)に登場する冒険家の兄の幻影のように、夢の実現を約束する幻だと言える。もちろん音声や舞台に投影されるテクストといった、実体のない曖昧な姿でしか登場しない櫻井翔が信用できる存在であるという保証はどこにもない。主人公たちを外の世界へと誘う謎めいたメールに対する青子と加絵の反応は対照的である。青子は一通目が届いた時点で即座に「迷惑メール」と断定するが、加絵はずっと櫻井翔と連絡を取り合っていたことが終盤で示される。メールの送り主は加絵にとって「会いたい人」となり、彼女が街を出るきっかけとなる。外の世界を知っている青子は「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこに行ったって」という諦めにも似た自己認識を既に得ているのに対し、加絵はまだ街の中しか知らず、外に希望があると信じているように思える。朝日ヶ丘からの加絵の逃走を判断力に欠ける若者の不毛な旅立ちと見るか、自分自身を理解するために不可欠な通過儀礼ととらえるかは観客しだいであろう。東京やメキシコから加絵は朝日ヶ丘に残った青子に手紙を書き送るが、注目すべきは手紙の内容が語られるシーンで加絵を演じる土肥希理子が舞台中央の穴に入り、両脚を粘液まみれにしながら言葉を発する点である。結婚して子どもができた一見幸福そうな家庭生活を淀みなく報告するセリフとは裏腹に、彼女の脚をとらえた粘液は自由を奪い、彼女を絡め取ろうとしているかのようにすら見える。旅の終着地で彼女を待ち受けていたのが朝日ヶ丘と同様のねばつく街でしかなかったと解釈することも不可能ではない。ここで演出の河井朗が柳生二千翔の戯曲の結末に対して異なる解釈を提示しようとしているのか、それとも柳生の戯曲にもともと込められていた両義性を強調しているのかは、にわかには判断しがたい。ただ確かなのは、この曖昧な結末は観客みずから答えを見つけることを要求しているということだ。雪の朝にもかかわらず一心に街の外を目指す加絵が旅立ちぎわに口にする「トラスト・ミー」という一言を信じて彼女の未来に希望を見出すか。あるいは、加絵もいつか青子と同じように、どこに行っても同じだと悟る日が来るのか。それとも――本作は決してわかりやすい正解を提示しない。ステージ上にぽっかりと開いた穴と同様、解釈と想像の場は常に観客に向けて開かれている。