田辺剛 氏(下鴨車窓 主宰)

ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』

 

バナナを密封してはそれを吊すという繰り返しが面白い。それはあらゆる自然(ここではバナナ)が製品化される現在を端的に象徴するのと同時に、素朴な工程を繰り返す作業を担う人の働く姿をも観客に見せる。俳優が宙に手を伸ばす作業のたびに観客はその重労働を担う身体を目の当たりにする。劇場の舞台空間はあんなに高さがあるのに、その天井を低く下げ効率的に労働を課す空間をつくるその演出は美しく見事だった。花道にいる俳優の語りも導入としてよく効いていて、舞台機構が動いて俳優がいよいよ舞台に入ってくるときには観る側の集中はとても高められた。
作品の主軸は収集されたことばを語ることにあった。さまざまな人の仕事や労働に対する思いを一人の俳優が語っている。語られる仕事の内容や言葉じりからエピソードが移り変わることを観客は知るけれどもそれは淡々としていた。そのリズムは変わることなく続くがそこに「いかに観客に聞かせるか」についてそれほど考慮されているとはわたしには思えず残念だった。語りを聞くことができなくなるのには理由がある。わたしたちはすでにこの世の中にさまざまな仕事があることを知っている。対価が低く、また過酷な環境で働く人が近くにいることも知っている。労働は喜びとはほど遠くいったいなんのために働いているのかという疑問は、すでにつねに持たれている。この作品で語られる内容は残念ながらその疑問やすでに知っていることを再確認させられる以上のものではなく「みんないろいろと苦労しているよね」という一言の前に立ちはだかるには頼りなかった。内容が過激であればよいということではない。せめてハッとさせられる切り口や、再確認ではなく再発見できるような、そんな見立てがそこにあればよかった。あるいは台詞がもっと洗練されていればよかった(この作品には劇作家が必要だったのかもしれない)。
 否、見立てはあったではないか。語りながらバナナを密封しては吊すという作業が、あの舞台を素朴な報告の場にはさせない突破口になるはずだった。ただ語って聞かせるならば演劇である必要はなくあのバナナの作業にこそ収集された語りに新たな光を当てるきっかけだった。しかし作業よりも語りが優先された。作業は語りによって容易に中断されて、主軸である語りに付属する行為でしかなかった。
俳優がその作業に息切れするほどの、あるいはもはや語りが途切れさせられるほどの、暴力的な数のバナナが必要だった。途切れさせられるべきは作業ではなく語りの方だとわたしは考える。あの密閉する機械の音は延々と繰り返され、バナナが無いなら袋だけでもよいではないか、ひたすら俳優は観客の前で「労働」させられるべきだった。その疲れ果てそうな身体を目の当たりにするなかで収集された語りが披露されるとき、観客は想像としての知識以上のもの、現代における労働のありようを舞台作品を通じて目の当たりにするのではないかと思う。刺激的な作品であることに間違いはない。前回と今回の試みが次回作にどのようにつながるのかとても楽しみになっている。