椋平淳 氏(Kyoto演劇フェスティバル実行委員会 委員長)

80億人の全世界が新型コロナと戦うことと、各公演わずか60名ほどの観客や演者がこの『GOOD WAR』公演に臨むこと ― 規模や次元が異なるこの2つの事象の間に、本質的な意義や価値の隔たりはない。今回のルサンチカの“戦い”は、うまく運べばこの極致に到達する…はずだった。

本作の原案は、スタッズ・ターケル『よい戦争(“THE GOOD WAR”)』。20世紀における米国の世界的優位を確立した第二次世界大戦は、米国の“大きな歴史”の中では “GOOD” な価値を帯びるものなのかもしれない。しかし実際は、千差万別の受け取り方や流動性があり、その大戦の“正義”を誇る者だけでなく、逆にネガティブな記憶にさいなまれたり、既存の意義づけを修正しようとする個人も無数に存在する。ターケルは、そうした人々の生の声を次々とつなぎ合わせる。通常は連なりづらいと考えられる複数の語(この場合は“GOOD”と“WAR”)をあえて結びつけた撞着語法をタイトルに用い、違和感や疑念をふくらませ、そのひずみに読者を引き込むことによって、この大戦の深層理解を促す。

ターケルと同じく素材をインタビューに求める構成・演出の河井朗は、まず本家の英語タイトルから定冠詞 “THE” を外した。第二次世界大戦という限定範囲から “WAR” を解放することで、今を生きる多様な人々が直面するそれぞれの“戦い”へと時空を広げる。日本唯一の上陸戦の痕跡が今なお五感に残る南の島での日雇い清掃、動揺する母親の手からこぼれ落ちる500円貯金のインパクト、都会の生ゴミと連日格闘するパッカー収集、河川敷でボコボコにされつつも九死に一生を得た生還など。4人の演者から口々にこぼれるちょっとした告白や、ほんの一言の絶叫は、一瞬聴き逃せばまったく意味不明に陥るようなはかなさの上を綱渡りしつつ、あの時その瞬間の断片的記憶が今ここで延々と再生され、紡ぎ合わされる。それぞれの生活に押し寄せる、おそらくは“BAD”な“WAR”の連鎖と、その痛み…。

ただし、どの断片にも語り手の明示がない。どこの誰の体験なのかを示す登場人物紹介や、あるいはその役を担う演者本人の自己言及もない。昨年、同じくKyoto演劇フェスティバル「U30支援プログラム」ルサンチカ公演『SO LONG GOODBYE』冒頭で、主演の渡辺綾子が「わたしの名前は渡辺綾子です」と語り始めたこととは対極をなす。舞台に立つ演者の自己紹介から始まったこの作品では、後続する無名の人々の仕事にまつわる無数のエピソードの中にも、「どこかに存在する誰かのリアルな体験」という主体性が垣間見えた。そしてそれが足がかりとなり、個々の観客が“特定の個人”としての自分自身を内省し、仕事という営みと各自のかかわりについて改めて意識を向けるというベクトルも、確かに生じた。

今回の『WAR』では、そのような“特定”が省かれた。ある意味、“THE” の除外と同じである。誰一人特定されない、主体性を欠いた脈絡のないたたみ掛けは、SNSのバズ/炎上よろしく、“誰のものでもある”という無名性ゆえの無尽蔵なエネルギーを呼び集める可能性がある。しかし一方で、特定の個人に帰着しない、“誰のものでもない”些細な出来事としてスルーされ、無力化される危険もはらむ。

河井はおそらく、なんとなく“BAD”な戦いが繰り広げられる瞬間を延々と、いや、くどいほど積み上げて増幅することにより、ともすればそうした個々の痛みを無きものにしてしまう巨視的な歴史観や権力に抗おうとしたのかもしれない。あるいは、我々自身の慣れや怠惰を覚醒させ、その“戦い”に「参戦せよ」と誘いたかったのかもしれない。事実、本作の後半を埋めつくすドラムの乱打には無数のメッセージが宿るのだが、その中の重要な一つとして、我々のDNAに深く息づく原始的な戦闘本能に訴える効果が感じられた。

他の観客がどのように感じたのか、私は知らない。しかし正直にいうと、私自身の鼓動はそのドラムの響きに激しく共鳴したわけではなかった。また、演者が語るさまざまな“戦い”の根底にある唸りやうめきに、どっぷりとのめり込むこともなかった。おそらく、2021年2月時点の、己を取り巻く日常/非日常/新日常の混沌たる重みの方が、やはり苦しかったのだろう。残念ながら、最後までその感覚から解放されることはなかった。

単純にみれば、この『WAR』観劇によって自らの日々の“戦い”の深刻さを再確認したのであれば、本作は“GOOD”な芝居だったと評価することもできる。しかし、欲をいえば、目の前の劇世界により深く没入し、作品の波動と我が身を強くシンクロさせることによって自らの内省を深め、追って実生活においての新たな視座や、視点を変えるためのきっかけを獲得するという興奮が体験したかったと思う。それは、作品を傍観することによる冷めた再確認とは本質的に異なる、演劇が提供できる“当事者としての気づき”である。

無論、河井の今回の企てが無策だったわけではない。たとえば策の一つは、観客席と舞台の反転である。本公演で観客は、舞台上に仮設された客席に座した。アクティングエリアは本来のホール観客席と、観客席に近い舞台上のスペースのみだった。会館に入場した観客は本来の観客席を通り抜け、演者の聖域である舞台に上がって着座する。個々の観客の感受性にも左右されるが、開演前のこの入場体験により、観客は慣れ親しんでいるはずの通常の観客席に安住することは許されない。撞着語法と同じく、予定調和にひずみを起こし、より深い精神のうごめきが促されたにちがいない。

二つめは、本来の観客席にさまざまなオブジェを散りばめたことである。これらはすべて、何らかの“戦い”から想起された造形だろう。スケルトンの材質は、照明を浴びて乱反射を起こす。上演中、その様子を観客は舞台上から視界に入れつつ演者の語りを聴くことで、“戦い”の個性や多面性を増幅させる…はずだったが、ホール観客席の広さの割には、オブジェの数や大きさが不足していたように感じる。その隙間を埋めたのが、本来の観客席にある固定座席、つまり、“特定”されない多数の空席という今回限りの舞台装置だった。くわえて、コロナ禍におけるソーシャルディスタンスの要請により、400席の固定座席は1つおきに使用不可を示すバインドが結んである。その200にのぼる締め上げられた座席は、劇中の“戦い”の痛みだけでなく、今を生きる80億人の息苦しさを、はからずも象徴していた。

三つめは、昨年の『SO LONG』では1人だった演者を、今回は4人に増やしたことである。複数の声や身体は、多様な“戦い”や広大な世界の表象を容易にする。かすかに鼻音が混じる、けれども輪郭が明瞭で小気味よい存在感の渡辺綾子。ややしゃがれ気味で、場合によっては耳に触る発声ながら、にもかかわらず当然のように身体性豊かな山下残。ただ、特徴的なこの2名に比べると、伊奈昌宏と諸江翔大朗はそれぞれ体格こそ異なるが、お互いに声質や口調がやや似かよっている。もしかすると、セリフを語る演者は、社会を成立させる最小単位、つまり3人だけでも良かったかもしれない。その場合の3人目は、4人の中では最もオーソドックスな諸江だろうか。音楽性豊かな伊奈は、仮にアクティングエリアを回遊したとしても無声を維持し、得意のドラムに専念することで、世界における何らかの層か、むしろ人知を超えた何らかの存在を表象させる方法もありえたかもしれない。

さて、この公演をもって、河井率いるルサンチカに対する演フェス「U30支援プログラム」は完了する。かつて彼らが大学演劇招待公演で演フェスに初登場した際、京都府立文化芸術会館ホールの緞帳と同じ大きさの吊り物で視覚的に圧倒し、観客の度肝を抜いた。「U30」の3年間も、そのような視覚的インパクトの類は保持していたように思える。『PIPE DREAM』では河井自身がロープでハラハラの宙づりになり、『SO LONG』では無数のバナナをやはり中空に吊るし、今回の『WAR』では普段見慣れないホールの無人客席空間を観客の脳裏に焼きつけた。その一方、同じ3作品では、劇世界を特徴づける聴覚刺激も印象的だった。『DREAM』の場合、河井が宙づりから舞台上に降り立つ際に生まれた「トサッ」という着地音が、今でも耳に残っている。『SO LONG』では、バナナを真空に密閉するパック器の機械音。そして今回は、前述のドラムの乱打である。はたして、今後のルサンチカはどのような新たな表現を獲得していくのか。どのような方向に創造力を高めていくのだろうか。より多様な観客層に訴求する、より総合的な独自の表現形態の開拓を、今回の支援に携わった一人として期待したい。