永田悠 氏(会社員)

「あの日」の隙間にモニュメントをお供えして

直後の余韻。シーン、音、イメージが断片的にちらかっている。言葉にできるのだろうか。途方に暮れながら川沿いを歩いて駅に向かう。ずっと、集大成だという言葉だけが頭に浮かんでいた。
不思議なことに1日、1 日と離れていくにつれ浮かぶ言葉が増えてくる。それぞれの「あの日」。「PIPE DREAM」、「SO LONG GOODBYE」、「GOOD WAR」 は順序を入れ替えたり混ぜたりしても成り立ちそうな連作だ。「GOOD WAR」を中心にいっしょくたにしてみる。

<比較> 1作目は河井さんが吊られ、2作目は渡辺さんがバナナを吊り、本作の会話のような形式とはなにか違うように思える。ただ、「理想の死」、「仕事」については、 1人で語ることができるが、「争い」は相手が居ないとできないと考えれば、誰かの声を通して繋がっている。とはいえ、1つ1つは現実の生身の誰かが発した声に違いないはずなのに、全体として見ると概念のように混ざりあう。前作までは誰かが発した言葉の意味を考えていたのだが、本作ではもっと抽象的な全体として捉えている。 舞台と観客席の逆転。観劇人数が絞られために劇場を広く使おうという演出があったのではとの想像もできるが、「争い」においては誰もが舞台に上がらざるを得ないとの解釈もできる。他に、1 作目、2作目あるいは他の演劇で京都府立文化芸術会館の舞台を観たことがある人にとっては、舞台上から観客席がどう見えるかを知ることができる貴重な体験。嬉しくて始まる前からマスクの下でにやにやする。 音の数。1作目は静寂の中、柱時計のようなコツコツとした音が響いていて、2 作目は真空パックんのぶぉーという音が鳴っていた。音が変わったタイミングで真空パックができあったことが分かる。本作は出演者が増えたことにより、誰 かの声を語る声(音)が増えたというものがある。さらにドラムが加わって、比べるとずいぶんとにぎやかだ。ドラムが鳴り響くなか、マイクスタンドを銃に見 立てたシーンは「GOOD WAR」において重心なのかもしれない。マイクスタンドに必死にしがみつきながらマイクに音が入った(ように見える)瞬間しか声が 聞こえないというところから、「生存」は「声」を上げている間しか他者には認 識されないというイメージが浮かんだ。そうするとドラムが心臓の鼓動のよう に聞こえてくるのかもしれない。発射される弾丸の中身は果たして何だったの か。

<あの日> 語られる声は「あの日」の「誰か」であり、「誰か」の今とさえ距離がある。明るくなった観客席に散らばるモニュメント群の第1印象は「絵画」だったが、これを心象風景と捉えると、モニュメントは言葉として再現されない記憶の1部のようでもある。この心象風景のイメージの中で動いたり声を発したりする出演者たちは、外に顕われることができる「あの日」そのものなのではないか。 「あの日」の概念には未来も含まれる。確実に起こる未来としての「あの日」は「死」だろう。本作の声には「死」にまつわるものが多かった。共感したのは、 自分は他人の死を悲しむが自分の死で誰かに影響を与えたくないというような台詞。たしかに、そうなったらすぐに忘れて通常営業の生活に戻って欲しいと思う。こうやって最終的には自身にまなざしが向かってしまうのもこの3連作の特徴だと思う。「私」はこうです。では、これを観た「あなた」はどうですかという対話のようだ。対話であれば応答しなくてはならない。

<持論> 「争い」について思うこと。他人と争うことが頗る苦手で何かを勝ち取ることに対する欲求がほとんどない。格闘ゲームのアバターのシーンのようにゲーム性に没頭できればもう少しうまく争うことができるのかもしれない。ただ、「争い」はなにも外とだけ行われるものではない。自分の内部でも頻発している。個人的な見解として「争い」の中核はここにあるのではないかと考える。悩み抜いて決意する過程にある葛藤や、誰か、ひいては世界に対して折れない部分をどのように設定するかにおいては、内側にある自分の消極性や否定的見解と戦っていかねばならない。「争い」と「死」と「仕事」が結びつける状況が何かと考えるとやはり戦時下だろう。世界史、日本史、人類史、どの時代にも戦争が起らなかったことはない。 今まさに起こっている自然の脅威との争いも全てが結びついているといえる。仕事の形態は変化し、起こる前より「死」との距離が近くなった。自然も含めて考えればたしかに、「争い」はなくならないかもしれない。しかし、理想論かもしれないが、自分は人間が全体的な争いを肯定し切っているとは思えないところがある。なかなか難しい。

<統括>
言葉にしていく試みは、「あの日」を発掘する作業のようだ。1 年前のあの日は雪が降っていたとか、2年前のあの日は当日券を買おうとしたら予約扱いにしてもらったなとか(その節はどうもありがとうございました)。2 週間前のあの日はとても暖かかった。演劇が始まったとき観客席のドアが開いていて、これ閉め忘れではないのか、大丈夫かと勝手にひやひやした感情。そのあと渡辺さんが入ってきたため問題なかったことに気付く。伊奈さんのドラムの迫力。諸江さんが演じる声の中にあったお姉系の人の魔女感。いつの間にか舞台に顕われていた山下さんがもぞもぞと中心に向かう姿がとても気になったこと。あらためてモニュメントを考えると、言語化できない「あの日」という意味の他 に、「あの日」にならなかった痕跡という意味もあるのかもしれない。日々選択という争いをしながら生きていかなければいけない人生の中には、選ばれなかった「あの日」も含まれている。分岐点に供えられるモニュメント。そうすると人生はモニュメントだらけになるが、戦いの跡を認知し承認した上できちんと 自分を生きていくことがモニュメントの供養にもなる。これを「GOOD WAR」としておきたい。人生という自分の舞台上で「良い 争い」を続けていこうと思う。